ベートーベンの第九について

 ベートーベンの交響曲第9番(いわゆる第九)の日本初演は、板東俘虜収容所におけるドイツ兵俘虜と徳島の人々との友好の歴史を象徴する音楽です。ここでは当ホームページ管理人「カクさん」が徳島エンゲル楽団のブログに不定期連載中の第九に関する記事を一部改訂して掲載します。完成版ではなく、時々修正するかもしれませんのでご了承ください。ご意見・ご質問があれば「お問い合わせ」からメッセージでお知らせください。

 

第1回


 1918年6月1日の板東俘虜収容所での第九の日本初演は、ハンゼン指揮の徳島オーケストラ(別名M.A.K.オーケストラ)および4人のソリストと収容所合唱団(すべて男性)によって行われました。 映画「バルトの楽園」では、多数の日本人が収容所に招かれて野外ステージでの演奏を鑑賞したように描かれていましたが、実際の初演はバラッケの中で行われ、ドイツ兵俘虜だけが聴いていたそうです。「バルトの楽園」を観たという人にこの話をすると、「あのシーンに感動したのに、史実とは違っていたのか!」とがっかりされたこともありましたが、まったくのでたらめかというと、そうではありません。この初演の翌日6月2日には徳島市でハンゼンと徳島オーケストラが「和洋大音楽会」で日本人向けに演奏を行ったからです。ただし、演奏した曲は第九ではなく、もっと短く親しみやすい曲が選ばれていたようです。ドイツ兵俘虜の演奏を多くの日本人が聴いて驚き感動したというのは映画のクライマックスのシーンにはぴったりで、その演奏が本当は第九の初演ではなかったとしても、翌日に同じ指揮者とオーケストラの演奏を徳島の人々が聴いたという事実があるので、脚色としては許容できるのではないかと思います。この和洋大音楽会の様子を記録した写真が鳴門市ドイツ館に所蔵されており、いろいろな資料にも転載されてよく見かけます。インターネットで公開されている資料の例として、館報「ルーエ」の第19号(2008年3月)にも掲載されています。(PDFのダウンロードはここをクリックしてください。) 満員の客席にいるのは明らかに日本人で、舞台の端には日本語で曲名が掲示されています。この記事で説明されているように、第九の日本初演の翌日に和洋大音楽会が開催されたこと自体が知られていなかったため、長い間この写真は1919年3月22日のエンゲルオーケストラが出演した和洋大音楽会を撮影したものだとされていたそうです。各種の資料がまとめられて簡単に閲覧できる現在の目で見ると、背が高い指揮者を見ただけでもエンゲルさんではなさそうだということはわかりますが、ドイツ兵俘虜に関する研究が進んでいなかった当時は、ドイツ人でも解読に苦労するドイツ語の古い筆記体で書かれた文献などを手がかりに、いつどこで誰が撮影したかもわからない写真の内容を明らかにするのは大変なことだったと思われます。徳島大学の研究者によって新しい資料が発見されて訂正された経緯は興味深いものです。100年近く前のことを直接知っている人はほぼいなくった現在も、このような研究によって歴史的事実が明らかにされ続けていることがわかります。

 

 話が第九からそれてきましたが、元に戻ります。映画のクライマックスをすばらしく効果的に盛り上げた第九とは、もちろんベートーヴェンの最後の交響曲としてよく知られていますが、それまでの常識を超越した大規模な声楽を伴う交響曲は、そもそもどのような経緯で作曲されたのでしょうか。この長大で複雑な交響曲は同時代の曲に比べると明らかに難解ですが、最初から人気があったのでしょうか。また、現在日本各地で年末の風物詩ともいえるほどの恒例行事として演奏されることを別にすれば、世界中で特別な機会にしか演奏されない特別な曲として扱われているのはなぜでしょうか。これらのことを考えると、収容所で不自由な暮らしを余儀なくされたドイツ兵俘虜たちが、この曲をどのような気持ちで演奏した、あるいは聴いたのか、その状況をより深く理解できるように思います。


第2回


 そもそも第九とはどのような曲なのか、聴衆にどのように受け入れられてきたのか、なぜ特別な機会に演奏されることが多いのかなど、第九について考えてみます。

 

 ベートーヴェンが第九の作曲を本格的に開始したのは、板東俘虜収容所での日本初演のちょうど100年前にあたる1818年の春とされています。前年にロンドン王立フィルハーモニー協会からの新作交響曲の発注を受けて構想を練り始め、途中で大曲である荘厳ミサ曲の作曲が入ったことなどで中断しながら、6年後に完成させました。世界初演は1824年、 ウィーンでベートーヴェン自身の「総指揮」によって行われました。(この頃にはベートーヴェンは耳が聞こえなかったので別に本当の指揮者がいました。) 演奏後の観客の拍手喝采に気づかず、ソリストの歌手がベートーヴェンの袖を引いて観客席を向かせて初めて気づいたというエピソードは有名です。このときベートーヴェンは53歳、大作曲家としての名声が確立していました。拍手喝采は作品である交響曲への賞賛ではなく、大作曲家が人々の前に姿を見せたことに対する敬意の現れだったようで、この時点では一般の聴衆どころか専門家にも第九の真価は理解されていなかったようです。それは、この曲がそれまでの常識からかけ離れた大規模で複雑なものだったためでしょう。

 ハイドンやモーツァルトの交響曲とはまるで違う次元に思えるような複雑な構成を持ち、しかも独唱と合唱を伴う大規模な交響曲は、どのようにして構想されたのでしょうか。ベートーヴェンは22歳のときにシラーの詩「歓喜に寄す」に曲をつけたいと語っていたらしいので、それをこの曲の起源と考えると、30年以上もかけて完成させたことになります。(シラーの詩の内容については、また後で書くことにします。) ベートーヴェンが22歳の1792年は、モーツァルトが41番までの交響曲を残して短い生涯を閉じた翌年にあたり、ハイドンが最後の交響曲群(ザロモンセット)を次々と作曲していた頃です。22歳のベートーヴェンは、そのハイドンに師事するために生地のボンを旅立ちウィーンに向かいました。そのときにシラーの「歓喜に寄す」に曲をつけるという考えを語ったという記録が残っているそうです。

ベートーヴェンは、偉大な先人2人の交響曲群が出尽くした後、30歳(1800年)で完成させた第1番から20年あまりの間に9曲の交響曲を異なる個性を持たせながら作曲し、交響曲の概念を別次元のものに改革してしまいました。ハイドンが完成させた古典的な様式美は初期の第1番や第2番には影響していますが、第3番「英雄」で飛躍的な変化が起こります。第九ではその新しい交響曲のスタイルに声楽を組み合わせるというさらなる革新が行われています。「英雄」以降に見られる劇的な音楽の展開に言葉を加えることで作曲者のメッセージが直接的に表現されることになりました。では、ベートーヴェンが第九に込めたメッセージとはどのようものだったのでしょうか。第1楽章から第3楽章までは、それぞれ異なる世界観が描かれます。終楽章で初めて登場するバリトン歌手の歌声によってそれらが否定され、有名な歓喜の歌に続きます。これがベートーヴェンのメッセージです。

 第九の第4楽章で歌われる歓喜の歌は、前述したシラーの詩(頌歌)の一部を抜き出して並べ替えたものにベートーヴェン自身が多少の改変を加えたものです。シラーの原詩はフランス革命の少し前に発表され、自由と友愛の精神を歌ったものでした。革命前夜のヨーロッパ各地で熱狂的に支持されたこの詩は、人々にはまさに革命への讃歌のように響いたと思われます。ボン大学でシラーに関する講義を受けた若きベートーヴェンは、その思想に大きく影響を受けました。しかし、その後ウィーンで活躍したベートーヴェンが第九の作曲を始めた1818年には、既にナポレオンが没落してウィーン体制が成立(1815年)しています。ということは、第九を書き始めた頃には貴族階級の復権により自由主義が弾圧されていたということです。貴族を嫌う自由主義者のベートーヴェンにとって、若い頃から傾倒していたシラーの詩に曲をつける構想がここで具体化したと思われます。次回は、もう少し詳しく歓喜の歌の内容とベートーヴェンの思想を考えたいと思います。

 

第3回

 

 最後の第4楽章でそれまでの3つの楽章では登場しなかった人間の声によって高らかに歌われる「歓喜の歌」(「よろこびの歌」)について考えてみます。

 「晴れたる青空ただよう雲よ・・・」と始まる「よろこびの歌」は、誰でも知っている有名な歌で、ベートーヴェンが作ったということもほとんどの人が知っていると思います。なぜこれほど有名なのか、その理由ははっきりしています。小学校の共通教材として教科書に載り、ほとんどの人が音楽の授業で習ったはずだからです。1947年(昭和22年)に、戦後の新しい時代にふさわしい明るくわかりやすい歌の指定教材として、第九の主題に岩佐東一郎の訳詞をつけた「よろこびの歌」が小学6年の音楽の教科書に掲載されました。1995年(平成7年)の新学習指導要領により共通教材は廃止されましたが、約50年もの間教科書に載り続けていれば誰もが知っているのは当然のことでしょう。このように有名になったことで、ウィーンでベートーヴェンが喝采を受けた初演の後ワーグナーが復活させるまで一般の人々には理解されなかったほど難解な第九が、日本人には身近な親しみを感じる曲になったと考えられます。年末恒例行事として日本中で第九が演奏され、そのほとんどで一般参加のアマチュア合唱団が活躍している現在、日本で第九がよく理解されていると言えるのでしょうか。そういう点はたしかにあると思いますが、広く知られる「よろこびの歌」は第九という曲のある一面を表しているものの、全体像の理解を妨げているようにも思えてきます。

 学校で習った「よろこびの歌」の歌詞は、平易でとてもわかりやすいものですが、シラーの原詩を直訳しても一致する部分はほとんど見当たりません。単語としては合唱が冒頭で歌う”Freude!”「よろこび(よ)」という呼びかけくらいで、ほかの言葉はどこにも接点がないように思われます。では、よろこびの歌は第九の第4楽章とは全然違う内容なのかと言うと、そうでもなさそうです。シラーの詩に出てくる言葉は西洋人には直感的に理解できても、キリスト教に馴染みの薄い日本人にとっては、そのままの日本語に訳しても何のことかわからないように思います。「天上の楽園の乙女」とか「炎を飲む(炎に酔いしれる)」などと聞いても、どうもすっきり理解できないのではないでしょうか。パックグラウンドにあたる文化が大きく違っていると、どうしてもこのようなことが起こります。そう考えると、「晴れたる青空・・・・」という日本人向けの意訳は、元の歌詞と精神的に通じるものがあるとも感じられます。平和な世界、理想の楽園。これは天上の世界のことでしょうか。たとえば交響曲第5番「運命」にも見られた「苦悩を突き抜けて歓喜に至る」というプログラムの終着点は、天国での幸福な生活(?)なのでしょうか。宗教的なことに興味がない筆者には漠然としかわかりませんが、何となくわからないでもない、という感じです。次回は「よろこびの歌」以外の歌詞も含めて、第九の全体像をもう少しじっくり考えたいと思います。

 

第4回

 

 前回は、日本語に翻訳されてよく知られる「よろこびの歌」が、シラーの詩とは(見かけ上)かなり違うけれども、キリスト教に馴染みの薄い日本人にもわかりやすくその精神を伝えようとしたものであるという意図で書きましたが、言葉足らずだったような気がしてきたので、もう少し詳しく説明しながら続きを書きます。

 

 今回は「よろこびの歌」以外の歌詞も含めて、もう一度じっくり考えます。まず、第九の歌詞と翻訳は、インターネットで検索するといろいろ見つかります。それらの中で、たいへんわかりやすく詳しい説明を見つけましたので紹介します。

「ベートーベン第九の歌詞と音楽」(http://www.kanzaki.com/music/lvb-sym9f.html)
ここに書かれている逐語訳とその解釈を読むと、全体像がはっきりと理解できます。ただし、このサイトの著者も冒頭で記しているように、文学作品には様々な解釈が成り立つため、ここに書かれている内容はシラーおよび/またはベートーヴェンの考えたことの一面を示しているにすぎないと考えた方がよいと思います。

 上記のサイトの内容を参考に考えますが、まずは極めて単純に歌詞を読み取ってみます。前回の記事にも触れた「苦悩を突き抜けて歓喜に至る」という考え方でそのまま素直に解釈すると、地上では喜びも苦しみもあるが、大きな困難を乗り越えて天上の世界(理想の楽園)に至ると永遠の幸福が得られる、という感じでしょうか。神々の世界を讃える歌としては、ストーリーが単純でわかりやすいと思います。前回の記事に書いた「晴れたる青空 ・・・ 」という歌詞は、この最終的にたどりついた天上の楽園の雰囲気を、日本人にも、しかも子供にも理解できるような平易な言葉で表現したものと考えればよいのかもしれません。もちろん、この日本語の訳詞も文学作品なので、さまざまな解釈ができるとは思いますが。

 では、日本語訳の「よろこびの歌」にはっきりと出てこない部分はどうでしょうか。特に、「すべての人々はみな兄弟となる」というフレーズは、第九の精神を象徴する言葉としてよく引用されます。実際、第九の合唱に参加して歌っていると、この部分すなわち ”Alle Menschen werden Brüder” が、何度も何度も繰り返されて、特に強調されていることを感じます。これが第九という音楽が発信するメッセージに普遍的な印象を与えていると考えられます。人類みな兄弟、すなわち普遍的な人類愛を歌っているという解釈です。そこから発展させると、人類はみな平等である、世界に平和を、というような立派な理念を歌っていると解釈することもできます。現実の世界は絶えず戦争の恐怖にさらされ、国々の間での経済的あるいはその他諸々の格差が存在することや、それよりもずっと身近な所でも、ささいなことから大きなことまで、あらゆるレベルで不平等が存在するのは事実です。人々は愛にあふれる平等や平和な世界を理想として追求しながらも、やはり現実にはそれが満たされることなく暮らしているとすれば、天上の神々がいる理想の世界にあこがれる讃歌としての意味が素直に理解できます。
 
 それ以外の解釈は成り立つでしょうか。この第九が歴史上どのような場面で登場したかを考えると、意外なほど様々な解釈が存在することに気づきます。次回から、それらの解釈のいくつかの例を示して、さらに考えてみたいと思います。

 

第5回

 

 前回まで、第九の歌詞をできるだけわかりやすく解釈しようという意図で筆者が考えたことを少しずつ書いていますが、その続きに入る前に、ちょっとコマーシャル(^^)?です。

 第一次世界大戦で日本軍の捕虜となり徳島県の板東俘虜収容所で暮らしたドイツ兵のヘルマン・ハンゼン氏が指揮する徳島オーケストラがベートーヴェンの第九を演奏したのが1918年6月1日でした。 声楽パートが男声のみであったことなどで完全な演奏とは言えないという意見もありますが、日本初演とされてきた東京音楽学校よりも早く第九の全曲を演奏したのは事実です。板東は現在では鳴門市の一部となっており、「鳴門の第九」は、その日本初演を記念して毎年6月第1日曜日に全国(最近では海外も)の第九合唱団からの参加者を多数迎えて盛大に開催されています。筆者も2012年の第31回に初めて合唱に参加して歌い、たいへん感激しました。今後も参加したいと思っています。ぜひご来場ください。


 ところで、鳴門の第九には、どのような意味があるのでしょうか。板東で日本初演が行われたのは第九のほかにも様々な曲があります。また、日本各地の収容所でも同様の音楽会が行われ、たとえば久留米俘虜収容所では第九と並ぶ傑作と言える交響曲第5番「運命」が日本初演されています。それらの中で、なぜ第九だけが特別扱いなのでしょうか。単に「ベートーヴェンの最高傑作の日本初演の地」であるというだけで、こんなお祭りが30年以上も続くものでしょうか。
 まず、鳴門で大規模なイベントとして第九演奏会が行われるようになったのは、日本初演の地だからという理由よりも、長い間忘れられていたドイツ兵俘虜との友好的関係が戦後数十年を経て復活したことと、その経緯を記念することが大きな理由です。このブログでも何度か書いていますが、第二次世界大戦後に板東俘虜収容所跡の引揚者住宅に住んでいた高橋春枝さんが偶然見つけたドイツ兵の慰霊碑を大切に守り続けたことで復活した日独交流は年々大きく発展しながら現在も続けられています。第九はその友好の象徴として実にふさわしい音楽です。つまり、第九の歌詞から普遍的な人類愛が読み取れることが大きく影響しています。

 これで、「コマーシャル」から本題へのつなぎができました。第九の歌詞に込められた意味をどう解釈するか、前回の続きから始めます。
 ”Alle Menschen werden Brüder” 「すべての人々は兄弟になる」
このフレーズを読んで、どのような印象を持つでしょうか。筆者はずっと、「人類はみな兄弟である」というイメージを持っていました。(この言葉になじみがあるのは子供の頃にテレビでよく見たコマーシャルの影響かもしれません。) ベートーヴェンは、そういう意図を込めてシラーの詩を第九に取り入れたのでしょうか。そもそも、その前にシラーはそのような全人類という意味でこの詩を書いたのでしょうか。
 文学作品なのでいろいろな意味にとれることはもちろんですが、まずシラーが頌歌(神への讃歌)として書いた詩であることを単純に考えれば、これは地上に生きる人々(全人類?)の友愛というよりも、死んで天上の世界(すなわち理想の楽園)に行くと、地上に存在した様々な格差や不平等は解消され、すべての人々が等しく神のもとで幸福になる、ということを歌っているのだと思います。要するに、死んでしまえば貴族も平民もなく、貧富の差も民族の違いもなく、その他あらゆる不平等なことがなくなり、その結果「兄弟」になる、と解釈できるということです。なお、シラーの原詩では「貧しき者らは王侯の兄弟となる」となっていたのが、ベートーヴェンが「すべての人々はみな兄弟となる」と変更したそうで、そこから考えると、シラーが書いた神への讃歌の意味 (死んでしまえば王侯貴族も貧者も平等であることから神の存在する天上界を理想として讃える)を、ベートーヴェンが普遍的な人類愛(生きている人々の間の友愛)に読み替えたとも考えられます。ベートーヴェンが第九を作曲した時代は、以前の記事にも書いたように(http://ameblo.jp/engel-tokushima/entry-11185196986.html)、ナポレオンが没落し、貴族が復権して自由主義が弾圧されていた頃です。自由と平等を願うベートーヴェンがシラーの神への讃歌を地上の人類愛に読み替えたのは当然かもしれません。そうだとすれば、 人類愛や世界平和の象徴としての第九の位置づけが明確になります。

 ただ、ここで筆者が思うのは、ベートーヴェンの時代に「すべての人々」とは誰を指しているかということです。世界に様々な民族がいることはもちろんわかっていたとは思いますが、世界のすべての人々が何人くらいいるのか調べる方法もない時代に、その人々すべてを具体的に想像していたのか、つまり文字通り地球上の「人類」すべてという意味をベートーヴェンが意識していたのかどうかは疑問です。もっとベートーヴェンにとって身近な範囲、すなわち貴族階級に対する民衆といった概念で「すべての人々」を考えていたのかもしれません。
 このように、シラーからベートーヴェンが引用した時点で既にベートーヴェンの「解釈」が入っていたこと、また、そのベートーヴェンの解釈さえも現代人から見るとさまざまに読み取れることを考えると、第九の完成から200年近く経過した現在に至るまで、さまざまな場面で「すべての人々」が都合よく解釈されてきたことが容易に想像できます。長くなってきたので、続きはまた次回にします。

 

第6回

 

 前回は「鳴門の第九」が単に日本初演を記念しただけのイベントではなく、ドイツ兵慰霊碑の清掃・献花という素朴な行動から大きく発展した日独交流の象徴として、「人類愛」をテーマとした第九がふさわしい音楽であったということから 第九の歌詞の中で特によく知られる「すべての人々は兄弟になる」の意味を考えました。第九が本当に人類愛や世界平和の象徴として作曲されたのかどうか、そもそもシラーの詩は単に神を讃えるものではなかったのかということを考えると、ベートーヴェンの解釈によるシラーの意図からの乖離(?)と、さらにそれを現代人から見た解釈によって、さまざまな意味に読み取ることができそうだというところまで書きました。今回は具体的に例をあげてみます。

 2012年の鳴門の第九演奏会の翌日に行われた「美術館でなるとの第九(PDFはここをクリック)」では、L.A.Daikuの指揮者Bernstein氏が作曲した東北の人々に捧げるFukushima Requiemの日本初演が行われました。筆者は残念ながら参加できませんでしたが、震災の鎮魂としての演奏会は大きな話題となりました。徳島エンゲル楽団のブログでこの演奏会を紹介した際に少し書きましたが、第九は、日本語訳の「よろこびの歌」の明るく平和な印象から、鎮魂あるいは追悼のような場には似合わないように思うかもしれませんが、シラー(およびベートーヴェン)が書いた歌詞の意図を読み取ることで、レクイエムと並べて演奏されるのがふさわしく感じられます。事実、昨年の東日本大震災の一ヶ月後にズービン・メータ氏がNHK交響楽団を指揮した演奏会は、まさに第九が追悼のための曲として選ばれており、その演奏は大きな感動を与えました。

 鎮魂歌としての第九とは?という問いへの答えは「すべての人々は兄弟になる」という言葉を素直に神への讃歌として受け取ることです。死によって(最後の審判を受けた後)楽園で永遠に楽しく暮らすことができるという考えは、旧約聖書を共有する宗教で普遍的なもののようです。死はすべての終わりではなく、すばらしい永遠の楽園生活の始まりであると考えると、第九の歌詞が、死者の魂が天に昇り神の愛に抱かれて兄弟になることを祈る鎮魂歌として心に響きます。亡くなった大切な人を思い、天国ですべての人々と愛に満たされた永遠の幸せに包まれるようにとの願いを込めて第九を歌い、聴くことで、地上に残された人々の心にも安らぎが得られるのではないでしょうか。

 なかなかうまく表現できませんが、今後もいろいろな話題に触れながら少しずつ話を整理してまとめようと思います。まだまだ続きますので、第九に関する今後の記事にご期待ください。

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2012年3月8日

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