演奏曲目の紹介

徳島エンゲル楽団は、大正時代の徳島エンゲル楽団が演奏した曲や、ドイツ兵俘虜のオーケストラが演奏した曲、その他ドイツ兵俘虜に関連する曲をレパートリーとしています。

2017年4月9日のドイツ館での演奏会では、100年前のちょうど同じ日にハンゼンと徳島オーケストラが松山からの仲間を出迎えた際に演奏したタイケの行進曲「旧友」を新しいレパートリーとして演奏しました。秋の演奏会では、板東俘虜収容所で100年前の1917年にハンゼンやエンゲルのオーケストラが演奏した曲を新しく取り入れる予定です。

これまでに演奏した曲を紹介します。(暫定版)

友愛の花  高橋敏夫作詞・新川清作曲

 第二次世界大戦後、忘れられていたドイツ兵慰霊碑を偶然見つけて清掃と献花を続けた高橋春枝さんの善意から始まった鳴門市民とリューネブルクをはじめとするドイツとの親密な交流の復活を記念し、春枝さんのご子息の高橋敏夫さんが作詞、当地板東の新川清さんが作曲した曲です。平和への願いを込めて毎回最初に演奏しています。参考:「第九」日本初演の地鳴門ー戦後の交流のあゆみー

 

美しき天然 武島羽衣作詞・田中穂積作曲 1905年(明治38年)

 西洋音楽が徐々に知られるようになった明治後期には、さまざまな西洋風の音楽が作られるようになりました。この曲は日本初のワルツとも言われます。大正時代の徳島エンゲル楽団がエンゲル氏の指導を受けて演奏できるようになったと伝えられています。衛生組合や婦人会などで演奏したそうです。

 

荒城の月  土井晩翠作詞・瀧廉太郎作曲 1901年(明治34年)

 瀧廉太郎は音楽留学生として日本で2人目という最初期にドイツに留学しましたが、わずか数ヶ月で病気により帰国し、23歳で世を去りました。留学先のライプツィヒには記念碑があります。代表作であるこの曲は無伴奏の歌曲でしたが、大正6年に山田耕筰が改訂した版で広く知られています。この曲も当時の徳島エンゲル楽団が演奏しました。

 

異国の丘  増田幸治作詞・佐伯孝夫補作詞・吉田正作曲  1943年(昭和18年)原曲作曲、1948年(昭和23年)レコード発売

 松江所長の補佐役として大いに力を発揮した高木繁副官は、退役後に暮らしていた中国で第二次世界大戦末期にロシア軍の捕虜となり、シベリア抑留中に病死しました。人道的に捕虜を遇した板東俘虜収容所と対照的に過酷なシベリアで捕虜として悲劇的な最期を遂げた高木副官に哀悼の意を表し、シベリア抑留兵が歌っていたこの曲を毎回演奏しています。

 

ドナウ川のさざなみ 堀内敬三作詞・ イヴァノヴッチ作曲

 ルーマニアの作曲家イヴァノヴッチの作品中、ほぼ唯一知られている曲です。イヴァノヴッチは軍楽隊にいたそうで、この曲は元は吹奏楽曲でした。原曲に歌はありませんが、アメリカや日本などで様々な歌詞がつけられ親しまれています。日本では昔から人気があり、エンゲル氏の指導によって徳島エンゲル楽団が演奏しました。

 

ゴンドラの唄 吉井勇作詞・中山晋平作曲 1915年(大正4年)

 大正4年、芸術座「その前夜」の劇中歌として中山晋平作曲、松井須磨子の歌でロングヒットしました。前年には同じコンビによる「カチューシャの唄」もヒットしています。この時期はドイツ兵俘虜が日本で暮らし始めた頃です。俘虜が日本人向けに演奏会を計画した際、松江所長は日本人になじみ深いこれらの流行歌も演奏するように要望したそうです。

 

おぼろ月夜 高野辰之作詞・岡野貞一作曲 1914年(大正3年)

 大正3年、尋常小学唱歌第六学年用に収録され、現在も音楽の教科書に採用されています。高野辰之作詞、岡野貞一作曲と伝えられています。荒城の月とともに日本の歌百選にも選ばれました。

 

美しく青きドナウ 内田伊左治作詞・ヨハンシュトラウス2世作曲

 「ワルツ王」ヨハンシュトラウス二世の代表的作として、さらにはウインナワルツの代表的な名曲として知られ、オーストリアの第二の国歌とも呼ばれています。ウィーンフィルのニューイヤーコンサートでは毎回アンコールに演奏されます。戦争に敗れて意気消沈していたオーストリア国民を元気づけるための男声合唱曲として作曲されたときは、ドナウ川とは全く関係ない歌詞で不評でしたが、後にオーケストラに編曲すると大人気となり、さらに後になってからドナウ川の美しさをたたえる格調高い歌詞が付けられました。日本語訳もいくつかの版があります。ドイツ兵俘虜の楽団がよく演奏したほか、徳島エンゲル楽団もエンゲル氏に指導をうけて練習しました。

 

Auf der Lüneburger Heide 歓喜の行進曲(マーチ)

 1912年に作られたドイツの歌で、ニーダーザクセン州北東部、豊かな自然と長い歴史を誇る自然保護地区リューネブルガーハイデの美しい風景や楽しい生活を歌います。ニーダーザクセン州の中心都市リュールネブルク市は板東俘虜収容所の縁で鳴門市と姉妹都市となり、模範的といわれるほど密接に交流を続けています。日本語版は「友愛の花」の作詞者高橋敏夫さんが創作を加えて訳詞をつけたものです。

 

第九「歓喜の歌」 シラー作詞・ベートーヴェン作曲

 板東俘虜収容所のドイツ兵の楽団、ヘルマン・ハンゼン指揮の徳島オーケストラによって日本(アジア)初演されたベートーヴェンの最後の交響曲である第9番は、何も説明なしに「第九」で通じるほど親しまれています。第4楽章の合唱から、テーマの部分が「歓喜の歌」として単独でよく歌われます。大正時代の徳島エンゲル楽団も歓喜の歌の部分を練習したそうです。

関連情報「ベートーベンの第九」もご覧ください。

 

ラデッキー行進曲 ヨハンシュトラウス1世作曲

 ワルツ王ヨハンシュトラウスの父であるヨハンシュトラウス1世の代表作として知られ、ウィーンフィルのニューイヤーコンサートではアンコールに演奏されます。聴衆が手拍子をするのが慣例になっています。

  

ヴァイオリン協奏曲ニ長調 (ベートーヴェン作曲)

 ベートーヴェンは交響曲を9曲、ピアノ協奏曲を5曲作曲しましたたが、ヴァイオリン協奏曲は1曲だけしかありません。しかし、その唯一のヴァイオリン協奏曲は、「ヴァイオリン協奏曲の王者」とも呼ばれる叙情豊かな傑作です。全3楽章からなり、全曲を通すと45分ほどかかる大曲です。1915年11月14日に徳島俘虜収容所でハンゼン氏と徳島オーケストラの第26回コンサート(第1回シンフォニーコンサート)でハイドンやモーツァルトの曲とともに第1楽章のみがまず演奏され、翌1916年1月23日の第31回演奏会(第3回シンフォニーコンサート)で第1楽章から第3楽章までの全曲が演奏されました。これが日本初演であると考えられます。同じ頃に丸亀俘虜収容所でエンゲル氏と丸亀保養楽団もこの曲を演奏していますが、丸亀俘虜収容所では金管楽器の演奏が禁止されていたこともあり、楽団の編成が小さかった(ヴァイオリン4名とフルート2名のみ?)ようで、ハンゼン氏の楽団の方が本来の編成に近かったのではないかと思われます。板東俘虜収容所での再演についても資料がありますので、もう少し調べて追記します。

 

2015年11月8日のハンゼン徳島オーケストラ100周年記念で新しく演奏した曲

ハンゼンと徳島オーケストラの演奏記録は、徳島俘虜収容所でドイツ兵たちが発行していた新聞「徳島新報」(トクシマ・アンツァイガー)に詳細に記載されています。曲目がきちんとした形で掲載された最初の演奏会である1915年4月5日のプログラムから、今回は2曲を演奏します。

 

カンツォネッタ (チャイコフスキー作曲)

 ヴァイオリン協奏曲の名曲として知られるチャイコフスキーの協奏曲から第2楽章を単独で採り上げたものです。徳島収容所ではハンゼン氏のヴァイオリン独奏で演奏されました。このときのオーケストラ編成は記載されていませんが、結成したばかりの頃で楽器も楽員も少なかったはずで、小規模のアンサンブルのような伴奏だったと推測されます。人数も揃わず、初心者もいた楽団で演奏会を成立させるには、独奏者の腕前を聴かせる協奏曲を選択したのは当然のことかもしれません。ハンゼンの演奏は好評だったようで、2ヶ月後(6月6日)の精霊降臨祭コンサートでも再び演奏されました。

 

弦楽四重奏曲第1番K.80 (モーツァルト作曲)

 モーツァルトが14歳の時に作曲した最初の弦楽四重奏曲です。一般によく知られている曲ではありませんが、少年モーツァルトの若々しい感性が感じられる明快で美しい曲です。最初期の徳島オーケストラが小規模の編成であったことは、弦楽四重奏曲を選曲していることからも伺われます。本来の四重奏曲として4人で演奏したのか、数人が同じパートを弾いて合奏曲として演奏したのか不明ですが、いずれにしても、新しい楽団の最初の演奏会の幕開けにふさわしく明るい曲で、聴衆の俘虜たちも楽しんだと想像されます。

 

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2012年3月8日

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